音に色と形
文字に色と形
匂いに色と形
「なんのこっちゃ?」とお思いの方もいれば、「ああうん」と感じる方もいらっしゃるかもしれない。
“共感覚”をご存じだろうか?
共感覚とは
一つの感覚(視覚)に他の感覚(嗅覚や体感覚)を同時に感じる障害らしい。
個人の感じ方に幅があり、日常生活に大きな問題がなく、むしろ業種によってはメリットが多いことから、障害と認定されることはない。
が、
情報処理量が多いので、無意識のうちにストレスになっていることは多々あるようである。
山田には共感覚がある。
新聞を読んでいると、写真以外は白黒なのにいろんな色が虹みたいに散らばっている。
不思議なことに文字通りの色が映るわけではない。
「紫」という文字に指定される色はムラサキではないし、「赤」という色にアカを感じることはない。でも一般的に通じるムラサキやアカはわかる。
紫は一般的に言う藍色にほど近い宵闇色、赤は金色に近い朱色である。金魚の色に似ている。
他にもクーラーの室外機や自室以外のフロアのTVの付けたり消したり、一時期流行ったコンビニ前にたむろする若者避けのモスキート音。
電車内に漂う柔軟剤の香り、デパートの1階フロア、ペットショップ、アロマ、飲食街。
室外機の音は金属たわしの砕けたようなものがバラバラ落ちてきているように見えるし、他のフロアのTVの音は黄色い細い線が耳の中を脳髄を抜けて走っていくように見える。モスキート音は黄緑色の小さい波がブルブル震えながらまとわりついてくる。
柔軟剤はスライムが流れてきているようで、デパートの1階はバラの花びらの洪水、ペットショップは茶色いじゅうたんが広がって、アロマは森。飲食街は食べ物によっていろんなイメージが想起される。
気が付くと結構しんどいので知らん顔するようにしている。
思考や意識をしていないと振り回されてしまうので、意識して整理するようにしている。
文字に色がある、っていうのは不思議ちゃんの特徴だ。
書いてて(なんとファンタスティックな表現か……)と驚いた。
だいたい「……ふ~ん……」と冷たい反応をされる。
色と形に圧迫されるのは、例えていうならぬりかべがリアルに前にいるような感覚。
一反木綿が顔にまとわりついてる感覚。
妖怪だから誰も見えないし、誰も共感できない。
興味のある人は食いつくけど、一般常識の世界で生活されている方にとってはオカルト以外の何物でもない。
そして私は一般社会の常識の中で生活している。
SFは好きだが、現実主義者だ。
ふわっと不思議よりもすっきりする科学が好きだ。
ちなみに守護霊やオーラなんかは見えない。
妖気も感じない。
人によりラベリングパターンは違うので、他の共感覚者が同じように感じるとは限らない。
共感覚とは個人の経験で大多数とは異なる神経配列が組まれたに過ぎない。
専門の学者さんによるとこういうことが起きるのは偶然らしい。
赤ちゃんの頃は接続がゆるいので、誰しもしばしばこういうことはあるらしいが、大人になるにつれやがて正常に接続が切れて、黒く印刷された文字は文字、匂いは匂い、音は音、と認識できるようになるとのこと。
共感覚は26人に一人ともいわれるし、6000人に一人とも言われる。
多くの場合、自覚していない上に個人差が大きいので、現時点では統計をとることが難しいらしい。
個人的には7人の内、5人くらいはいるんじゃないのか、と思っている。
気付かないフリをしてるだけで、実はみんないろいろ感じ取ってるんじゃないかと信じている。
なんでこんなにたくさんの割合がいると感じるか?
なぜなら日常的にこういう勘違いや誤解はたくさん発生しているから。
もし、みんな共感覚に気付いていて、その世界が当たり前だと信じていたら大変なことになるじゃないか。
だから気付かないふりをしている。気付かないふりを続けているうちに、それが普通になっていっている。
赤と指定しても金色が来ちゃったり、紫と指定して紺色が来たら仕事にならない。
言葉(文字)に付けられている意味や内容は人それぞれだ。
ある人にとって「お金」は豊かさや人格のすばらしさを讃えるものであっても、ある人にとっては搾取の結果や辛い労働を喚起するのかもしれない。
トップリーダーが「豊かさを得るためにお金を稼ごう!」と一声かけたら、末端にいる派遣のおばちゃんはこう思うかもしれない「なんでアンタら偉い人が贅沢するためにアタシらが必死になって働かんといかんの。ちょっとは現場の苦労も見てみぃや」
意図が全く伝わってない。
もし、お互い顔を突き合わせて話をしても、きっと、全然かみ合わない。
トップリーダーにはお金はキンキラキンの素敵な人格者に見えるんだろうし、おばちゃんにとってお金は血と涙と汗でできた鎖が見えるのかもしれない。
効率よく豊かになって早く幸せを手に入れようって言いたいトップリーダーと、一気にまとめるよりもコツコツ努力を積み重ねることが幸せだって言いたいおばちゃん。
見えてるものが違うのに、同じ話をさも当然かのようにしてしまうと、まったく違う決着点にたどり着いてしまう。
『自分と同じものが相手も見えているはず』
この前提は誤解や勘違いを生みやすい。
だからといって、『見えているのに、見えていないふりをする。』を続けると、見えないことが当たり前になっていく。
見えてるのに見えていないことにする。
見えない世界を当たり前を信じ込んでいく。
ないものだと信じ込む。
そしてそれが相手のストレスや自分のストレスにも気づかない原因になっていく。
違いをマイノリティ指定してサポートするよりも、多様性を知る一端にした方が良いのではないか?
そのほうがもっとクリエイティブで可能性の開ける社会になっていく。
だってそこには本当は『在る』かもしれない。
自分には見えないものが、人には見えてるのかもしれない。
それはもしかしたら自分にも見えていたのかもしれないし、可能性をただ見落としていただけなのかもしれない。
子どもはとても柔軟でいろんなものを受け入れられる。
大人はとてもまじめに周りと調和して、上手に否定することができる。
もしかしたらみんなぬりかべや一反木綿に気付いているけど、上手に目線を合わせないようにしてるだけなんじゃないか?
そんな気がしている。